その男は確かに「あの男」に違いなかった。しかし同時にオレの知る「あの男」ではなかった。
思い出は「思い出のまま」にしておいた方がいい、とはよく言ったものだ。
ランニングの楽しみ方はいろいろだ。
たとえば大会での自己ベスト更新を目標にした、トレーニングとしてのランニング。マラソン競技としての楽しみ方だ。
筋トレやダイエットのためのランニング。これはファッションとしての楽しみ方といえるだろうか。
散歩的な楽しみ方もある。街の散策だ。
知らない街を走ると多くの発見がある。少し大げさに言えば、それは冒険だ。
いや、知っている街を走ってもいくつかの発見があるのも、ランニングの楽しいところだ。車では通らない裏道や、歩きでは選ばない少し遠回りの道をあえて走るとそんなことがある。「こんな場所にラーメン屋あったんだ!今度来てみよう」なんて思ったりして。
しかし、次の瞬間には忘れて、未来永劫その店で食べないであろうことはよく知られている。
オレは昔住んでいた街を走るのが好きだ。
10年くらい前まで住んでいた街をたまに走ることがある。
実は今住んでいるところから5kmも離れていない場所だから、いつでも行けるんだけど(笑)
といっても、5km離れていれば、生活圏はほとんど違う。
買い物するスーパーが違うし、最寄りの地下鉄の駅も違う。だからその街の変化に気づかない。意外な場所にコンビニができてたり。駐車場だったところにビルが建ってたり。思いのほか変化していることに驚く。そしてほんの少し寂しい気持ちにもなる。
そんな移り行く街並みの中に、オレをホッとさせてくれる場所がある。場所というか店だ。喫茶店だ。喫茶店というよりカフェと呼んだ方がいいだろうか。なかなかオシャレな店構えだから。
そのカフェはずっと変わらずそこにある。
前の通りを走ったときに、そのカフェを見ると昔を思い出す。外観は「まったく」変わっていない。外に出している黒板メニューみたいな看板も「まったく」変わっていないように見える。
変わらない店構えがオレをホッとさせてくれる。
変わらない店構えがオレをホッとさせてくれる。
昔、そのお店に通っていたことがあって。
近くのマンションに住んでいたから、オープン当時から何年も通っていたんだ。だから一応常連客として認識さてれいたとは思う。
といっても「少し変わった」常連客といった方がいいかもしれない。
年に1回しか行かない常連客だったからだ。
こういうことだ。
あるとき、そのカフェのチラシがマンションにポスティングされたんだ。クリスマスケーキのチラシだ。「カフェでつくる自家製のクリスマスケーキを注文販売しています」というチラシだ。
そのカフェは自家製ケーキが人気の店ということは知っていた。
そこでつくるクリスマスケーキだ、さぞかしおいしいのだろう。オレは注文してみることにした。
正直、クリスマスケーキにそれほど興味はなかった。コンビニで買うやつでいいだろ、そう思うタイプだ。なんとなく、たまたまポスティングされたチラシを見たタイミングで注文してみただけだ。
けっこうな種類から選べてさ。ブッシュドノエルだなんだって。
値段は3000円から5000円くらいで、オレの感覚からしたら「高ぇーな」と思わなくはない値段だ。
でも、なんかタイミングで買ってみようと思ったんだ。
味はどうだったかって?オレにわかるわけねーだろ!
もちろん、おいしかったよ。おいしかったけど、それ以上詳しく説明はできない。
それから毎年そのクリスマスケーキを注文し続けたんだ。
それがそのカフェに年に1回だけ行ってた理由だ。
3年目くらいから店員さんに認識されたと思う。「毎年クリスマスケーキを買うためにだけ来る謎の男」として。
そこの店員さんは・・たぶんご夫婦でやっていたと思う。そんな感じの二人だったから。確認したことはないけどね。
当時でご夫婦ともに30代くらいだったと思う。いつも接客してくれるのは女性の方だ。とても感じがいい。
寡黙な感じの男性がカウンターの向こうでコーヒーを淹れる。丁寧にネルドリップで淹れるその姿は堂に入っている。どこからどう見ても「カフェのマスター」だ。後ろで流れる音楽はもちろんジャズに決まっている。
お店の入り口にある黒板メニューや店内のメニュー、自家製ケーキの説明が書かれたプレートなんかは、女性の手書き文字だ。
その丁寧で温かみのある文字から、お客さんに対する愛情が伝わってくる。
とてもステキなカフェだった。

なんだかんだで10年以上はクリスマスケーキを買い続けたと思う。その街を離れた後も通ってたから。年に1回だけね(笑)
でも、そのうちなんとなく買わなくなって。お店に行くこともなくなって何年か経って。それでも、近くを通るたびに「お、まだやってるな」といつも思っていて。
でも、そのうちなんとなく買わなくなって。お店に行くこともなくなって何年か経って。それでも、近くを通るたびに「お、まだやってるな」といつも思っていて。
先日、超久しぶりにそのカフェに行ってみたんだ。
店のドアを開けたのは10年ぶりくらいじゃないかな。
「まったく」変わってなくて。店内の雰囲気、テーブルの配置なんかも「まったく」変わってなくて。
「まったく」変わってなくて。店内の雰囲気、テーブルの配置なんかも「まったく」変わってなくて。
いや、一つだけ大きく違うことがあったんだ。
いつも出迎えてくれた女性店員さんがいない。
内心ドキドキしてたんだ。オレのこと憶えてくれてるかなって。
でも女性店員さんはいなかった。休憩中だろうか。買い物にでも行っているのだろうか。たまたま休みなのだろうか。
でも、過去に一度だって女性店員さんがいないことはなかったんだ。ただの一度も。
だから、アレ?と思って。
カウンターの向こうには男性マスターがいた。でも、男性マスターとはほとんど話したことがないんだ。オレのことなんか認識していないと思う。
まぁコーヒーを飲んでるうちに女性店員さんが買い物から帰ってくるかもしれない。そう「思っていた」。
カウンターの向こうから男性マスターが接客にやってきた。
その男は確かに「あの男」に違いなかった。しかし同時にオレの知る「あの男」ではなかったんだ。
少し痩せていた。どことなく猫背ぎみだった。声は小さく、あの時の堂々とした振る舞いは影を潜めていた。
その男が差し出したメニュー表と自家製ケーキの説明が書かれたプレートを見て、オレはすべてを察した。
女性店員さんがいなくなってしまったことを。
男が差し出したメニュー表と自家製ケーキの説明が書かれたプレートは昔から「まったく」変わっていなかった。
いや、昔のまま使い続けているそれは、擦れて部分的に文字が消えてとても見づらくなっている。そういえば、入り口にあった黒板メニューもしばらく書き換えられていないような色あせたものだった・・
それは古代遺跡の石版のように。
いつも丁寧で温かみのある仕事をする、あの女性店員さんがこれを許すわけはない。
女性店員さんは、この店からいなくなってしまったんだ。
そしてそのことが、男から堂々とした振る舞いをも奪い去ってしまったんだ。男はこういう時に弱かったりする。
店内が急に色あせて見えた。
いや、実際に色あせていたんだ。たとえばレジ横に貼られている自家製ケーキの何枚かの写真。昔のままだ。それが一様に色あせている。
白っぽいチーズケーキの写真は、色あせてほとんど白一色の写真になっていた。
あの女性店員さんがこれを許すわけはない。
女性店員さんは、この店からいなくなってしまったんだ。
いや、それはすべてオレの想像だ。
だけど、想像するしかないんだ。男にそれを確認する勇気はなかった。オレの知る「あの男」ではなかったから。
またいつか、ランニングがてら、この街を訪れてみよう。
入り口の黒板メニューが書き換えられていたら、入ってみればいい。その時はきっと、チーズケーキの写真も新しくなっているはずだ。
ランニング、それは冒険だ。
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コメント
コメント一覧 (10)
だからこそ、普段の面白いのが映えるんだと思いますけど。
あらら・・軽い気持ちで書いてしまったのですが、確かに悲しい話になってしまいましたね・・
でも、あくまでも私の「想像」なので。また近くを走って女性店員さんの元気な姿を見た日には面白おかしく報告します!
あれ、おしゃれだった?
そっかー、そういうつもりもなかったんだけどバレちゃったか~。
こういうのが本当のオレだからさ(ウソです)
いや、どの男だよ!
3人くらい思いつくんだけど(笑)
とかいって、まだ普通にいたりして。状況からの想像なので(笑)
あれ?私は切ない恋愛ブログを見に来たんだっけ?
あれ?私はスタートラインはどこですか?を見に来たんじゃなかったっけ?
だけどスタートラインはどこですか?を書くあの男はいつものあの男じゃなかった。
いや、アレですよ。女性はガンで治療中?とか。もしくはもう…
とか、想像してしまい胸が切なく苦しくなるような寂しさを感じる内容でした。
まぁ。その男性がキャバ嬢にハマって散財しまくった事に愛想つかして実家に帰ってると思う事にします。
これが本当のスタートラインはどこですか?ですよ。
いつものフザけたブログは仮の姿です(笑)
まぁ、確かに病気の線はないわけではいですよね・・
そのうち、できれば「やっぱりいたわ!」って吉報をお届けしたいのですが、果たして真実を知る日は来るのだろうか。