人はそれを「コミュニケーション能力」と呼ぶかもしれないし、仕事なら「営業力」と呼ぶのかもしれない。
どんな話題に対しても臨機応変に対応し、その会話を最大限盛り上げる力のことだ。
「臨機応変能力」と表現してもいいかもしれない。
「臨機応変能力」に優れた人は、この先を読む必要はない。
今後も今まで通り自由闊達に思いのままを語ればいいと思う。
「臨機応変能力」に乏しいと思う人は要注意だ。
一度は耳にしたことがあると思うが「政治と宗教とプロ野球」については極力語らない方がいい。
他人の信念、信仰、応援が自分と共通するとは限らないからだ。
むしろ共通するほうが稀なことだろう。自分と共通しない話題の会話を盛り上げるのは難しい。
ことによったら、その場の空気を凍りつかせてしまう危険がある。
やめた方がいい。
「臨機応変能力」に乏しいならやめたほうがいい。
「政治と宗教とプロ野球」について語ることは極力やめたほうがいい。
「臨機応変能力」優劣の判断
自分の「臨機応変能力」が優れているのか劣っているのか判断のつかない人がいるかもしれない。その判断は簡単、だ。
誰しもこんな経験をしたことがあるのではないだろうか。
友人に新しい彼女、もしくは彼氏ができたとき。
そのお相手の写真を見せられた経験が。
キミはその時、どんな言葉を発しただろうか。
第一声目に、だ。
「これどこ?」
思わずそう言ってしまったことはないだろうか。
お相手の感想を言う前に、写真を撮った場所を聞いてしまうパターンだ。
あるいは
「何歳?」
いきなり年齢を聞いてしまうパターンもよくあるだろう。
これらに共通しているところは「逃げ」だ。
新しい恋人の良し悪しの判断から完全に逃げた発言だ。
いや判断は下されている。
「悪し」だ。
残念ながら「悪し」の判断をしてしまったキミは、その評価を口にすることから逃げてしまったんだ。
類する言葉を上げればキリがない。
「いつ撮った写真?」
「遠くてよく見えないな」(はっきり見えてる)
「雨降ってたんだ」
全て「逃げ」からくる言葉だ。
それらの言葉を発した瞬間、友人は「悪し」の判断を感じとってしまうことだろう。
どうして人間は正直にならなくてもいいところで正直になってしまうのか。
一言で済む話なんだ。
男性なら「かっこいい人だね」でいいだろう。
女性なら「きれいな人だね」でいい。
なぜその一言が言えないんだ。
「臨機応変能力」に乏しいからだ。
あるいは、油断、だ。
話の流れから「写真を見せられるな」そう予測はできる。
もしくは仕方なく(笑)「写真見せてよ」そう自分から促したかもしれない。
いずれにしても、心の準備をする時間は十分にあるはずだ。
心の準備とは、できるだけハードルを低めに想定することだ(笑)
しかし多くの場合、その想定を軽々と下回ってくることはよく知られている。
油断、だ。
まさかその想定を下回るはずはない、という油断からくる「これどこ?」発言だ。
失言といっていい。その後の友人との会話は盛り上がることはない。
友人の新恋人の写真を見て、第一声目に「これどこ?」なんて失言してしまう人は、「臨機応変能力」に乏しい人に違いない。
「政治と宗教とプロ野球」そして「マラソンのタイム」
「政治と宗教とプロ野球」に加えたいのが「マラソンのタイム」だ。「臨機応変能力」に乏しい人は「マラソンのタイム」についても語らない方がいいだろう。
マラソン大会に出たとする。
残念ながら、あまりいい走りが出来ずにがっかりしているところに知人が現れる。
その人がマラソンをやっているのは風のうわさで知っていたが、普段の付き合いはないのでそのレベルは知らない。
仮に名前を「瀬古さん」にしておこうか。
「あ、瀬古さん!」
「あれ、シブケンさん、同じレース走ってたんだ!」
マラソン会場で知人に会うのはうれしいものだ。
やっと同士を見つけたような。
「瀬古さん、タイムどうでした?」
「いやー、けっこう調子よくてね、自己ベスト更新!」
「おーすごい!」
もう、この後の展開は想像がつくだろう・・・。
「シブケンさんは?」
「全然ダメ」
「ありゃりゃ。どんくらいだったの?」
「4時間10分。サブ4できなかった~」
「・・あら~」
「瀬古さんは?」
「あ、4時間30分」
「・・あ~・・・む、向かい風強かったっすね・・」
「あ、うん、強かったね・・」
「そんじゃ、また」
「また」
「臨機応変能力」皆無状態だ。
そして油断だ。
自分の方が遅いに決まってるという油断からくる失言だ。
教訓
誰かにマラソンのタイムを聞かれたら、なんとしても(笑)先に相手のタイムを聞き出して会話の展開を組み立てるんだ。野球の話になったら「大谷すごいっすねー」と言っておけば間違いない。
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